しんかいのデザインノート

小さな振り返りノートの積み重ねから気づいた大きなスケッチブック。今のところの考えをつれづれなるままに。

個別最適な学びについての雑感

この前、前に勤務してた学校の先生方と飲んでいて
個別最適な学びの話が出た。
『「個別最適な学び」と「協働的な学び」っていろいろな資料やICTを自由に使って調べて、最後に共有する授業みたいな感じだよね。』
この話からずっとなんかあってるようで、なんか違う気もする。
その場では、「そうですね」とは素直に言えず。
続けて、「できる人はいいけど一握りなのではないか」というような話も。

この話が出る時、いやもといもっと前から
それはアクティブラーニング、主体的で対話的で深い学び、自由進度学習、「学び合い」の時からなんかずっと違和感がある。

こういう授業の型の話(そういうまとめ方もどうかと思うけど)が出る時に
教科の特性というかおもしろさみたいなものを失ってはいないのか?ということだ。

去年の場づくりの研究主任をしてた時も
「場づくりではありだけど、教科としてはなし」みたいな話があって、子どもが安心して活動してるけど、国語としての深みはないというような。

ずっとついて回る
「2つを追い求めることはできないのか」という疑問。

そこでずっと個人的に思っているのは
何を個別化して、何を最適化していくのか。
目的と手段のようなものを、どこまで解放していくのかに。

例えば算数での「教科書の〇ページの考え方を説明できる」
というような課題は
算数が持つ既習事項からパズルのように組み立てて、答えを出す
そのおもしろさを失っている気がするのである。
それならば、みんなで問いを立てて、既習事項となる項目を整理し、やってみる一斉授業のようなものの方がよりおもしろさがあるような気がしてならない。

社会でも僕は個人的に必要だと思う資料はタブレットの中に入れてあるので、(それ以外に検索してもいいけど)個人が調べを進めて共有する流れはある。そして、共有して、新しい問いをみんなで作る。
でも、入れる資料を間違えるとその人の思いや工夫に迫れないのでめっちゃ吟味する。
僕の「ごみはどこへ」の学習はほぼこれ。めっちゃふつうなのだ。笑

じゃあ、次に取り組むのは問い作り。
個人的に問いを持ち、探求していけばいいのではないか。
こういう時間ももちろん確保している。個人で探究することもありだと思う。

でも、よく総合的な学習の時間で言われることは
「それぞれの課題になると『自分ごと』ではなくなるので、話し合いが深まりにくい」
という。

クラスのそれぞれのグループの課題が全体の課題につながっていないと自分ごととして話せない。これも言っている意味はわかる。
話し合いが「ふーん」で終わる。協働性が少なる気がする。だから、話し合いの論点・立ち戻るところをはっきりさせて、いくことが大切なのだろう。
グループで探究で終わるのもいいけど、クラスでいる意味とはというのも考える必要がある。

そして、そうバラバラな課題に対する振り返りの視点。他人から学ぶ時にはこれって結構大切だと思う。

まだ、考えることはある。
子どもたちの様子を見ていると
それは
「みんなと同じことができる」というのはけっこう子どもたちの感覚からしてうれしいことなんだと思う。
これは同じ学年の人が集まっているからなのかもしれないけど、
大人でも「あいつにできて俺にできない」は結構しんどい。
もともと年齢が違う集まりだったら、素直に受け入れられるだろうけど。

この違いを取っ払える自由進度学習を進められる学級経営というのは、簡単にはできない。
だから、違いがあってもいい問いを作る必要があるんじゃないか。
それは知識の自由進度ではなく。

でも、同じ非認知能力があったらやっぱり知識の多い人が社会では採用されるのだろうか?
きっと特別支援教育ってそういう社会との接続まで考えないといけないんだろう。

個別最適な学びと協働的な学びってめっちゃ難しいな。と。
めっちゃとりとめがないけど。そんな簡単じゃない気がする。

 

ばーっと書いたので言葉が荒いのはちょっとご愛嬌ということで笑