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うみをあるくえかきびと

小さな振り返りノートの積み重ねから気づいた大きなスケッチブック。今のところの考えをつれづれなるままに。

全国算数授業研究大会

今度は算数へも行ってきました。よほどの暇人かと思われそうですが。。。

でも僕にとってはとても大切な場所です。

僕の心をひかれている実践とは違うものを見る「異質」から学ぶことはとても意味があると思います。

その中でその先生がどういう意図をもってやっているのか

ここがとっても大切なだと思います。

僕たちとやり方が違っても、きっと思いをもってやっていることは同じで

それを否定することなく、そこには「こういう意図もあるんだね」と見れること。これって大切だなと思います。

 

で、僕が見ていたのはもちろん教材のこと

教科書をスムーズに使うってことをしない算数が多いですが、単元全体を見てどういう力をつけていきたいのか

教科書を使うとどうなるのかってことは考えながら

そういった意味で僕はうまく教科書をプログラムデザインできるようになりたいなと思っています。

 

「何を知りたい?」という問いにも子どもたちが主体的にしたいという意図、授業をともに作るということが出てきているし

「ちょっと確認して」とどういうときにペアトークを入れているのか(これは確認が多いですね)

「どんなことでなやんでるの?」という問いにも困っている子、学習がうまく進んでいない子に寄り添おうという気持ちが見られるなと

『「僕はきっちりとやっている子」「言われたことを頑張っている子」に寄り添う』とおっしゃるその言葉も。

「この子の言いたいことわかる?」「どういう気持ちかわかる?」これは学ぶってことがどういうことなのかを示してくれている言葉でした。見えないものをみえるようにする。それは学習内容も友達の心も同じだなと。

 

総括してなんとなくなのですが

学習というのは「知らない言葉」について知り、それを使っていくことなんだと

そうすることでその中でのコミュニティの中での共通の言語にしていくことなんだと思います。

 

また、お互いに見えていないことを話すには感情だったり、言葉だったり、そこにずれが生じることが

それを僕たちは可視化ということを通して翻訳していくこと大切なんだろうと考えています。

 

最後に「困っている子に寄り添う」この気持ちは変わらないなと。どこでリカバリーしようとしているかによるけれども、

その時間内に救ってあげようとするのか、長い時間を通して救ってあげようとするのか、自分の力でできるようにしようとしているのはどちらも同じ。

そういった意味で見る視点はこういうところなんだと。

ファシリテーターも同じですね。表情とかを観察してそっと寄り添ったりする。

 

今の僕の見えていること。残しておこう。