しんかいのデザインノート

小さな振り返りノートの積み重ねから気づいた大きなスケッチブック。今のところの考えをつれづれなるままに。

1カ月前のLEGOワークショップについて

今日はLEGOを使ったワークショップに参加してきました。
その中でアイスブレイクをやらせてもらって、無事にWSDの補講課題を完了!
WSDの中では2回もトップバッターの役割をやらせれもらえて、とっても僕にとってはありがたかったなーと思います。
目的の大切さ、授業とか学級経営で言うとねらいとか目指すゴール像をもうちょっと意識することが
1つ1つの言葉の質を高めてくれるなと思いました。
大切にしたいこととか社会の中で大切にしなきゃならないこともっと考えていかないとなーって思います。
今日やったアイスブレイクだって、昨日やったアイスブレイクだってきっと目的によって使い方が全く違うものになるのだろうなと、昨日の結論は出たけどそこからもぼんやりと考えちゃいます。
「時間で区切るのか」「最後まで見守るのか」そういう場を作りながら「何を価値づけるのか」
もうちょっと1つ1つのことにじっくりと向き合う時間が取れるようにしていきたいなーと改めて思います。
さて、レポートはあと1つ!
おもしろい課題なのでもう少しじっくり考えて答えを出そうと思います。
僕が「ワークショップと話し合いの授業の違い」についてクラスの子に説明するならどう言うのかなー?ここをもっとしっかりともっていたら、なんだか変わりそうなので時間の許す限り考えたいと思います。
そうそう、LEGOワークショップの中ではグラレコもしました。こっちも楽しいですね。
なんだか久しぶりな気が。いやそうでもないかも(笑)
画力が上がったといわれましたが、きっと毎日宿題にリクエストにこたえながら、お絵描きをしているからでしょう(笑)

 

OJTを生み出すには?~余白を大切に~

USBが使えなくなるリミットが近づいていて。
きっと働き方が変わる気がします。
学校で仕事をする人か
完全に家に持って帰って仕事する人か。
最近、早く帰る時短術がものすごく流行っているような気がして。
もちろん、家族のある方にとってそれも大切だなーって思います。
早く帰ることはとても素敵なことなんですけど。
でも、ちょこっと思うことがあります。
あんまり人には理解されない気がしますが(笑)
僕は雑談の時間ってけっこう重要な気がして。
「こんなことあったんだよね」
「こういうことしたんだー」
という時間は実は週1回の学年研の時間には起こらないのです。
やるべき行事、こなさなきゃいけないことの確認がメインで。
授業進度がメインで。
11月になって初めて学年でした気がします。勤務時間内に。
そして、聞きたいことができる時間は人によってまちまちで
授業とかそんなんではなく、人としてどう接しているのか?っていう大切な問いは突然にやってくるのです。
だから、何が言いたいかというと
学校にいる時間が早い人と遅い人とすごく二極化してしまったら、
人が育たなくなるんじゃないかなーっと
思うのです。
僕も人の話していることから「その人の価値観」を知り、学びました。もちろん、今もそうです。
オフザジョブトレーニングの時間はなくなり、自分の周りにいる困っている人を助けられずに終わるんじゃないか。
遠くにいる人じゃなくて、近くの人。
ということで、僕は若い人にけっこう声をかけるんですけど。
ただ、時間を短くしていくのではなく、
もっとゆるやかに人が育つ時間の使い方にならないのかなーって。
ぼんやりと思うわけです。

コミュニティを生成する問いはあるのか?

最近の2,3日の疑問に新しい問いが見つかりました。

 

なんだか今更な感じもしますが

僕にとっての「今」だったので。

 

子どもたちが成長してほしいって思うときに

「ほめる」や「認める」、もしくは「叱る」

なんてことはあって、いっぱい本を読んで

「今日はうまくいったな」

「今日はうまくいってないな」

と一喜一憂することはよくあります。

この辺の時期になると、残りの時間も限られてきてさらにレベルアップしてほしいなんて思いが出てきて

ついつい口調が厳しくなってしまったり。

自分の悪い癖だな~って思うことも。

 

ふと「ジャイアントキリング」って漫画を読んでいて、今までのことをふっと思い返して

僕は自分と個人の子どもをつなぐ声かけとかはすごく学んできたけど

この子個人をどう指導しようかみたいなことを学んできたけど

ルールの確認はよくするけど

「子ども同士をチームにする」「子ども同士をつないでいく」言葉かけについてあんまり知らないなと、というか意識してなかったなと。

でも、あんまりクラスやチームを意識しすぎると

なんだか息苦しい気もする。

いっつもクラスのことを考えていたらちょっと息苦しいのかも

じゃあ、チームじゃなくて「コミュニティを生成するような言葉かけや問いかけ」はあるのだろうか?

ここを見つけて、フィードバックすることができたら

もっと楽に気を張らずに

成長って言葉に意識を取られずに僕がいれるのではないか

と考えたわけです。

 

思いつくのは「クラスという共同体」「貢献」がキーワードなのかな。

あとは、しっかりと課題を話し合って解決していくことか?

チームとしてレベルアップしていくために教師という「壁」になることも必要なことがあるのかもしれない。

僕が壁になって、注意する・フィードバックする、それに向かってみんなで優しい声かけをして協力する

でも、コミュニティって「壁」は必要なのだろうか?

視点を自分から他者へと向けるためにどのように声掛けをしてくか?

 

「チームを意識する問いかけ・言葉かけ」

「コミュニティを意識する問いかけ・言葉かけ」

ちょっとこの問いに向き合って過ごしてみようと思います。

いろんな方がいるからこそ大切にすること~公立の学校だからこそ

3か月間にわたる長いまなびの時間もあと少し。 
動画を見ていて、「地域で開かれているワークショップだったら
この体験をできないであろう人たちに公立の学校の中で行われたら
体験させることができる。」という話が出てきた。
 
お金を払って出るのではない
気付いた人がいくのではない
 
家庭教育とか地域のワークショップではなく、
公立の学校でワークショップをする理由は
公立の学校でさまざまなゲストを呼ぶ理由は
ここにあるんだなーって。
教育に熱心な人もそうでない人もどんな家庭の人たちも一緒にできること。
平等な世界だからこそ
 
こういうことをサラッといえる人はとてもすごいなと思いました。
 
ワークショップをもう少し広げていきたいなーと思います。

まとまってないけど、書いておきたいこと。

 

 【当たり前の質】

 

それと同時にいろんなことも頭の中にあります。

チームとコミュニティの関係も見えてきたようでまだ見えてない。

実は常に効率よく動ける方がいいじゃん、常に協力している方がいいじゃんなんで思っている自分もいるのです。

もっとゆったりしてていいよなんて言いつつ。

叱るとかではなく、どうやったら

「当たり前の質を上げていけるのか」

行動の質を考えることができるのか?

次を意識できるのか?

仲間を意識できるのか?

ってところが、させられるではなく、したくなる状況にしていきたいなと思っています。

日常の中でのムダを省けるように

チームを意識した声かけができるといいなと思います。

どうしたらもっとチームとしてコミュニティとしていい段階にいけるのだろう?

何が価値があるのだろう?

こちらで価値付けてもいいし、みんなで言ってもいい。

ここら辺がポイントなのかもしれません。

 

【縦か横か】

 

集団を考えた時に先にあるのは

個人の努力や忍耐、我慢、成長なのでしょうか?

はたまた、個人をサポートできる暖かな集団なのでしょうか?

どちらか先にあるのかはわからないし、同時並行的に作られていくのだと思いますが。

困っている人を全力で助ける風土は大切だろうと思います。

しかし、やらない・逃げている人を応援できるかといえばそうではない。声をかけるけど、待っているが本当なのだろうと思います。

その声は優しいときもあれば、本音の時もあったり。

そして、自分の苦手と向き合った時に全力で助けてあげる。

僕はどちらかというと正直さがすごく大切な気がして。

ま、「素直になれるコミュニティ」

間違った表現をして、気を引かなくて済むような場がすごく大切であることもかわりはないのですが。

先生との関係、アイスブレイクや授業でつくり成長を褒めてくれる認めてくれることで紡ぐ縦糸。

ここが丈夫になれば本音が伝わるようになってきます。

子ども同士、横の関係も本音を言う前にはたくさんのコミュニケーションの量。暖かな浅いコミュニケーションから、本音の言える深いコミュニケーションへ。

こう変化させていきたいなと思います。

 

最近の問い続けていることです。また書きながら、整理していきたいなーと思います。

ほめるとか叱るとかよりも

もっと大切なことがあるとすればなんだろう?

 

それはきっと聴き切る事だともう。

もしくは心ゆくまで話させること。

この体験はものすごく大切で関係性を紡いで行くために大切だと

 

それをしたことによってちゃんと

ほめるとか叱るとかよりもそういうことが成り立っていくのだと思う。

 

今日は授業を見た。

子供の言葉をスルーしてしまうことが多い。

たしかにどんどん話す言葉に向き合ってはいけない時もある。

でも、ルール守りながら言ってほしい

というのを伝え続けながら

ちゃんと受け止めることが大切なんだと、あらためて思った。

誰かのものが私たちのものになるとき

誰かの作ったのものが私たちのものになるとき

どういう変化が起きているのだろうか?

今回の作ったプログラムには打ち合わせもしている。

その人のものを話し合いをしてみんなでOKをもらっているのだ。

しかし、やってみたら「やっぱりダメだ」と思ったんだよーと。

結局は、他人事であったということなんだと思う。

 

他人ごとを自分ごとに変えるならばどうしたらいいのか?

それはゼロベースから考えていくことなのかな。

最終的に「僕は、ここに1つ入れたいけど」

「じゃあ、何を入れたらいいの?」

と聞いた。

いろいろ考えた末に思いついた一手は

複数者の納得は得た。

(ただし、全員ではないだろう)

イデア出しを全員でして、納得したプロセスであることが大切なんだろう。

形にまとめるのは一人かもしれないけど。

プログラムの方を決めていくとき、時間による制限

その当てはまるアイデア出し

納得解

ここまではみんなで進む必要がある。

 

そして、プロトタイプは役割分担。

その制作過程を踏んだ時にきっと

他人ごとは自分ごとになる。

 

パッチワークの一部に組み込まれた時、意見が採用された時

途中からでも自分ごとに近づいていくのだろう。

ひとつひとつ確認して他人を巻き込むことで、

私たちものを作り上げる。

ここはきっと必要なんだろうな〜って思う。